平成22年(2010年)青柏祭解説


 写真集     使用カメラ:SANYO VPC-T700

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4月25日、29日撮影
  ・飾り制作風景

5月02日撮影
  ・飾り制作・人形宿配置風景

5月03日撮影
  ・飾り制作・人形配置風景

5月04日撮影
  ・本山

5月05日撮影
  ・裏山




 出し物紹介 

鍛冶町
 大徳寺 総見院 茶会の場 (だいとくじ そうけんいん ちゃかいのば)
<人形>- 長谷川等伯
     - 千 利休
     - 妙 清


 上洛後、一時期狩野派に学んだともいわれるが、等伯は早々に狩野派を出て、40歳代には長谷川の基盤を固めたとされる。その時期、注目されるのが大坂堺の人脈である。
 
当時の堺は大変な商業都市で茶の湯も栄え、等伯と親交があったとされる千利休や本法寺の日通上人も堺の出身であった。
 等伯は41歳の時に妻の妙浄を亡くし、51歳で妙清と再婚している。その妙清は日通上人と親戚関係にあたり、やはり堺の人であった。日通の一族には有名な茶人も多く、日通や妙清 もそうした素養を身に付けていたと推測される。豊臣秀吉が 織田信長の菩提を弔うために建てた総見院の襖絵は等伯が描いたとの記述があり、もし利休の推薦で等伯が描いたとすれば、天正13年3月8日に行われた有名な「総見院茶会」において、秀吉や出席した茶人、武将たちに等伯の名が知られる絶好のチャンスであったであろう。


−魚町−
 長谷川等伯上洛の場 (はせがわとうはくじょうらくのば)
<人形>- 畠山義慶
     - 長谷川等伯
     - 妙(前妻) 久蔵(子)



 長谷川等伯は天文8年(1539)年、畠山氏の下臣である奥村文之丞宗道の子として能登国七尾に生まれた。幼少の頃、染物屋を営む長谷川家へ養子に迎えられたといわれる。  絵師でもあったとみられる養父・宗清などに絵の手ほどきを受け、すでに20歳代には信春の名で絵仏師として活躍していたと考えられている。しかし、33歳の時に相次いで養父母が死去、畠山氏の政治情勢も暗雲が立ち込めており、それを機に妻の妙浄と長男の久蔵を連れ、生家の奥村家菩提寺本山である本法寺を頼り、正式に京都へ移り住んだと見られている。  当時、30歳を過ぎた地方絵師が大舞台京都を目指すには、七尾に訪れていた京の文化人たちや、京都に本山を持つ法華寺院などのバックアップもあったと推測されるが、大舞台で新たな境地を見出そうと上洛を決意した等伯の志が伝わってくる。



−府中町−

 等伯親子の競演 楓図、桜図の場 (とうはくおやこのきょうえん かえでず、さくらずのば)
<人形>- 長谷川等伯
     - 長谷川久蔵
     - 豊臣 秀吉




 等伯52歳の時、仙洞御所障壁画制作を狩野永徳ら狩野派に阻止されたという記録が残されおり、等伯が画壇の実力者である狩野派を脅かす存在になっていたことが知られる。その直後に狩野永徳が急死、今度は逆に等伯率いる長谷川派に大仕事が舞い込む。  豊臣秀吉がわずか3歳で亡くなった長男・鶴松の菩提を弔うために建てた、「京都第一の寺」といわれた祥雲禅寺の障壁画制作である。2回の火災などに遭いながらも、現存する部分は桃山金碧障壁画の名作として国宝に指定され、その中でも「楓図」は等伯の代表作として、また、「桜図」は「清雅 父にまさる」と高く評価された長男・久蔵の代表作として知られている。  久蔵はこの「桜図」を描いた直後、まるで桜のように26歳という若い命を散らした。最後の親子競演である。



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