平成20年(2008年)青柏祭解説


 写真集 

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4月29日撮影
 ・飾り制作風景

5月02日撮影
 ・飾り制作風景・人形制作風景

5月03日撮影
 ・ 飾り制作風景

5月04日撮影
 ・本山

5月05日、06日撮影
 ・裏山



 出し物紹介

府中町
 能登府中評定の場 (のとふちゅうひょうじょうのば)
<人形>- 三代城主 畠山義統
     - 高座宮 大宮友永
     - 五井兵庫頭


 文明九年(1477)、守護被官五井兵庫頭が珠洲部上保の高座宮(現須須神社)の神田を横領した件で、高座宮神主の友永が兵庫の横暴さを府中の守護法廷に訴えた。この時在京の守護義統に代わって神主の友永の訴えを審議したのが守護代の遊佐統秀。彼は双方を法廷に呼び、争いの経緯を確認し、高座宮側の正当性を認め、高座大宮(大宮司)の申し状に自分の推挙状を添え、守護義統の裁許を仰いだ。その結果、高座宮に神田を還付せよとの裁許が京都から守護所に齎され一件落着。
 室町時代の守護所は軍事的な必要性から設置され、物資を集められたことから、それらを取引する市場ができ、商人が集住した。それは七尾城を中心とした城下町形成の準備段階でもあった。
 三代目の守護義統は応仁の乱後の同十一年、能登に下国し、分国経営の基盤を固め、府中の居館で生涯を閉じた。


−鍛冶町−
 源氏物語七尾栄 (げんじものがたりななおのさかえ)
<人形>- 七代城主 畠山義総
  - 光源氏
  - 紫の上



 七代目城主義総は永正十二年(1515)から五十五歳で亡くなる間の三十年間、七尾城に居住して政治文化の向上に努め、七尾を北陸屈指の城下町にした。その賑わいを京の禅僧彭叔守仙は「山下は家を移すに千門万戸をなし、城府と相連なること殆ど一里余」と『独楽亭記』に書いた。また義総の勢威を頼って公家歌人冷泉為広、為和父子や連歌師の月村斎宗碩など多くの文化人が訪れた。
 義総は古典研究の第一人者として著名な公家の三条西実隆に支持し『源氏物語』『伊勢物語』『古今和歌集』などの研究に励み、『源氏物語細流抄』が焼失した時は再度入手する熱の入れようだった。今年は『源氏物語』一千年紀、その保存、研究に貢献した「能登守護畠山家」の成立は六百年。この偶然を祝し、義総がこよなく愛した『源氏物語』の主人公を飾って七尾の繁栄を祈念したい。



−魚町−
 七尾城入場 (ななおじょうにゅうじょう)
<人形>- 初代城主 畠山満慶
     - 初代の父 畠山基国
     - 守護代 遊佐祐信



 初代城主の父、畠山基国は能登・越中・紀伊(和歌山県)・河内(大阪府)の国守護で、応永五年(1398)に室町幕府の管領に起用され、畠山全盛時代を築いた。同十三年、基国の死後、長男の満家は時の将軍足利義満の勘気を蒙り蟄居中で次男の満慶が家督を継いだ。やがて将軍義満の死で兄の満家が許されると弟の満慶は相続した全てを兄に譲り、その行為は「天下の美挙」と賞賛された。
 満慶は兄から能登一国を貰い、満慶を初代とする「能登守護畠山家」が六百年前成立しました。彼は家督の委譲後も室町幕府御相伴衆として最高権力グループに列し、幕府内で重要な地位を占めたから、立派な見識と品格の持ち主だったと言える。室町時代は守護の在京が原則で、現地支配は守護代が努めました。遊佐は畠山家譜代の重臣。満慶は信頼して遊佐を能登守護代に任命した。



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