平成19年(2007年)青柏祭解説
写真集
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4月22日撮影
・飾り制作風景
・携帯撮影
4月29日撮影
・飾り制作風景
4月30日撮影
・飾り制作風景
・携帯撮影
5月3日〜5月5日撮影
・デカ山
・携帯撮影
出し物紹介
−府中町−
川中島の合戦の場 (かわなかじまのかっせんのば)
<人形>- 上杉謙信
- 武田信玄
- 山本勘助
お馴染み大河ドラマ。原作は井上靖の「風林火山」である。
有名な川中島の合戦対峙は五回。信玄三十三歳、謙信二十四歳から十二年に及ぶが、四回目を川中島の合戦と言い、信玄と謙信の一騎打ちが伝えられる。
1561年9月、謙信は今度こそ信玄の首を取ると決意し、一万二千の精鋭を率いて春日山城を発ち、妻女山に陣を張った。
信玄は総勢二万で西方の茶臼山に陣を取り、越軍の退路を断つが謙信は動かず。さればと信玄は退路を開き海津城に入ったが、それでも謙信は動かない。士気の緩みを感じた信玄の武将達は即時開戦を主張した。信玄はこの時勘助が提案した「キツツキ戦法」を採用し軍勢を二分した。この戦法を見破った謙信は信玄の軍八千を奇襲した。
勘助は自分の戦法が見破られ、甲州軍を危機に追い込んだことを恥じた。二分した部隊の到着まで敵を食い止めねばならぬ。覚悟と気迫が迫る軍師の戦死であった。ついに別部隊到着。窮地で動じない信玄の逆転勝利である。
−鍛冶町−
先代萩御殿場之場 (せんだいはぎごてんばのば)
<人形>- 政 岡
- 仁木弾正
- 松前鉄之助
1777年、奈河亀助らが合作した歌舞伎場面。その後、浄瑠璃化されたり「伊達競阿国戯場」など入り混じって作品が成立。
奥州領主足利頼兼の伯父や執権の弾正が若君鶴千代の命と乳人の政岡の失脚を狙う。弾正一味の栄御前が鶴千代の見舞いに来て毒入り菓子をすすめる。政岡の子千松が咄嗟に踊り出て菓子を食べる。弾正の妹八汐は菓子に毒が入っていた事を隠すために「無礼者」と千松を刺し殺す。
それに動じない政岡を見て、鶴千代を千松だと勘違いした栄御前は政岡を味方にしようと弾正一味の連判状を手渡す。栄御前が去った後、政岡は我が子千松の死が国を救ったと遺体にすがって泣き、八汐を討つ。
そこへ鼠に化けた弾正が現れて連判状を取り戻すが、警護の鉄之助に捕らえられる。しかし弾正は鉄之助の目を妖術で眩ませ、悠々と去っていく。
この騒動は幕府に知られ、細川勝元の英知で弾正の悪計が暴かれた。勝元の計らいで鶴千代が奥州の領主となる。
−魚町−
奥州安達原 (おうしゅうあだちがはら)
<人形>- 八幡太郎義家
- 安部貞任
- 安部宗任
1762年、竹田和泉、近松半二らの合作による人形浄瑠璃。義家に敗れた安倍一族のうち母と貞任、宗任兄弟が生き残り復讐を図る物語り。
義家は安倍一族の探索を命じて鎌倉に凱旋したが、匣の内侍と皇弟環の宮が行方不明、責任が守役の平{仗にかかる。必死の捜索にも事態は進展しない。
奥州外浜の文治は匿った貞任の子千代童が病気で金を借りたが返せない。文治は鶴を殺した犯人を見た者に褒美を出す触書を見て死罪を覚悟で鶴を殺し、女房に訴人させ、その金で借金を返した。それを知った南兵衛は宗任と本名を明かし、文治の身代わりに都へ引かれて行った。
都では、{仗が宮失踪の責任で切腹する日である。桂中納言が見舞いに来た後、素性の知れぬ浪人と契り、勘当した娘袖萩が訪ねて来た。盲目の乞食になった袖萩は祭文で身の上を語り、夫の素性を貞任と明かす書状を差し出した。それは宮誘拐の場の残された文字と一致した。義家は文治の身代わりは宗任、桂中納言は貞任と見破ったが咎めず、戦場での再会を約束する。