平成18年(2006年)青柏祭解説


 写真集 

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 今年からデジカメを変えました。これまでは Fujifilm の FinePix1500 を使って いましたが、今は無き D'zign の DZ-320 です。倒産品だから安かった。。。``r(^^;) ぽりぽり
 一部ケータイのカメラです。

4月16日撮影
 ・飾り制作風景

4月23日撮影
 ・飾り制作風景

4月29日撮影
 ・飾り制作風景

4月30日撮影
 ・飾り制作風景

5月2日撮影
 ・人形見:人形宿

5月3日撮影
 ・デカ山制作

5月4日撮影
 ・本山

5月5日撮影
 ・裏山その1
 ・裏山その2




 出し物紹介

府中町
  一豊 功名軍記(かずとよ こうみょうぐんき)
<人形>- 織田 信長
     - 山内 一豊
     - 千    代


 1573年、小谷城が落ち、浅井長政は自刃。お市の方も夫と運命を共にするつもりだったが「万福丸を命がけでお守りする」との秀吉の言葉に淡い期待を抱き、万福丸と三人の姫を連れて城を出た。だが戦国の世でそれは淡い期待でしかない。
 兄の信長は「殺せ」と秀吉に命じ、秀吉は一豊に命じた。
 一豊が小谷から岐阜に帰った日、生垣の向こうに信長の姿あり。慌てて跪く一豊と千代に「市の打ち掛けを持って参上せよ」と言う。早速千代が縫い上げた打ち掛けを持って参上すると、お市の方が問うたのは万福丸の消息であった。
 城から戻った千代の話に一豊は蒼白になり、万福丸殺害を打ち明けた。幼子を殺して苦悩する夫に千代は安堵し、侍奉公の辛さも分かち合った。
 信長・一豊・千代の三人が顔をそろえる場面は大河ドラマの妙技だが、信長のお市にかけたやさしさを垣間見て心が和む。


−鍛冶町−
  仮名手本忠臣蔵 一力茶屋の場(かなてほんちゅうしんぐら いちりきちゃやのば)
<人形>- 大星 由良之助
  
  - 寺岡 平右エ門
  
  - 遊女 お軽



 おなじみ忠臣蔵。二世武田出雲など三人合作の時代物浄瑠璃。
 由良之助は敵の目をくらますために祇園一力茶屋で遊興。お軽の兄の平右衛門は「仇討ちに加わりたい」と頼むが相手にされない。
 そこへ顔世御前(浅野内匠頭夫人)の文が届き、次いで師直(吉良上野介)の手先の九太夫が動向を探りに来た。
 やっと一人になった由良之介は縁先で文を読み始める。ここが歌舞伎の名場面で、お軽は二階から鏡で写して文を読み、九太夫は縁の下で垂れてくる文を読む。やがてお軽のかんざしが落ち、その音に由良之介は二人の存在を悟り、お軽に身請け話をして去る。
  平右衛門は秘密保持の為にお軽が身請け後殺害されると思った。ならば自分が殺して仇討ちに加えてもらおうと決心し、お軽も死を覚悟したとき、由良之介が現れ平右衛門を仇討ちに加えると言い、お軽に刀を持たせて縁の下を一突きし傷を負った九太夫を引きずり出して平右衛門に加茂川で殺すように命じる。

 

−魚町−
  朝比奈 和田 城門破り(あさひな わだ じょうもんやぶり)
<人形>- 和田左衛門義盛
     - 朝比奈三郎義秀
     - 武田 信光


 執権の北条義時は源頼朝夫人だった姉、政子を巧みに利用して源氏から天下を取る野望を抱いた。そこで邪魔になったのが頼朝を助けて鎌倉幕府成立後侍所別当に重んじられた義盛である。ことあるごとに彼らを憤激させついに反逆させた。
 1213年5月、義盛は鎌倉幕府・義時邸を襲撃した。義時は将軍実朝の名で諸将を招集し、門前に迫った敵には城門を堅く閉ざして防いだ。義盛の三男で大力無双の義秀は「何の小癪な」と門前の大きな敷石を剥がし、門扉に投げつけて破り、六角の大鉄棒を水車のごとく振り回し、義時を求めて駆け巡ると武田信光が踊り出て防戦した。「一打ち」と鉄棒を振り下ろさんとした刹那、横合いから斬りつける者あり。見れば信光の一子で、十三歳の信忠。殺すには雑作は無いが、信忠の孝心に免じて見逃したは、花も実もある武士の情けと後世まで謳われ、近松門左衛門や並木宗輔の筆によって歌舞伎や人形浄瑠璃で上演された。


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