平成17年(2005年)青柏祭解説

 写真集 

※注意:各ページには「戻る」リンクがありません。別窓へ開きます。
 各ページのサイズはかなり大きくなります。

4月17日撮影
 ・飾り制作風景

4月24日撮影
 ・飾り制作風景

5月1日撮影
 ・人形宿配置&飾り

5月3日撮影
 ・魚町デカ山飾り付け&鍛冶町、府中町

5月4日撮影
 ・本山

5月5日撮影
 ・裏山

 ・裏山 その2



 出し物紹介

府中町
  一の谷嫩軍記熊谷陣屋(いちのたにふたばぐんき)
<人形>- 源 義 経
     - 相   模
     - 熊谷 直実


 宝暦元年(1751)、並木宗輔ら六人が合作した時代物浄瑠璃。  義経は平家との戦いで熊谷直実に「一枝を伐らば一指を剪(き)るべし」の制札を与えて、平敦盛の陣所に向かわせた。制札から直実は「院の落胤である敦盛を助けよ。身代わりを立てて」が義経の心だと解釈する。  直実は須磨の浦で敦盛を討つと見せて、初陣したわが子直家の首を打って陣屋に帰る。陣屋には直実の妻相模がわが子直家の安否を気遣って武蔵から来ていた。舞台は直実が義経に直家の首を捧げ「ご批判如何に」と迫る歌舞伎の名場面である。  義経は直家の首を敦盛と認め、幼少の頃自分を助けてくれた平宗輔に本物の敦盛に託す。直実は自分の子を殺し、人生の無常を感じて出家する。無常観が漂う作品だが、武士道の酷薄さに対する反逆も秘めている。


−鍛冶町−
  平治の乱 義朝館
<人形>- 源 義 朝
  
  - 悪源太義平
  
  - 平 重 盛


 平治元年(1159)12月、源義朝と藤原信頼は平清盛・重盛が熊野参詣に出かけた留守を狙って兵を挙げた。平清盛父子は急遽都に引き返し、天皇を六波羅の平氏第に迎えた。関白基実らが義朝らの追討を決めると、重盛は大内を攻め、信頼軍を破って侍賢所に進み、禁庭(きんてい=宮中。禁裏。禁中。)の椋樹(むくのき)に達した。  信頼軍劣勢を見て、義朝は「悪源太はいないか」と長男の義平を呼び、禁庭から重盛追い出しを命じた。悪源太の悪は強いという意味で、義平は名前どおり活躍し、重盛軍を追い回して大宮表まで退却させた。だが重盛も強者、新手を率いて再び禁庭の椋樹まで攻めたが、義平軍はこれも撃退した。  舞台は義平が重盛を危機一髪まで追い詰めた場面だが、平治の乱は源氏が敗れ、平氏全盛への道を開いて終わった。それはまた日本の歴史が貴族の世から武士の世に変わる節目にもなった。
   

−魚町−
  橋弁慶
<人形>- 牛 若 丸
     - 武蔵坊弁慶
     - 伊勢三郎義盛
 

 「ここを通りたいなら、その腰刀を置いていけ」「それはお断りいたす」「お断りだと!ならば腕ずくでも貰い受ける」と大男の弁慶が振り回す長刀を牛若丸がひらりとかわして五条の大橋を通過する。牛若丸は義経。平治の乱で敗れた源義朝の遺児である。  弁慶は僧侶として比叡山で修行していたが、同山と園城寺の抗争に巻き込まれ、その首謀者として追放された。牛若丸に心酔した弁慶は、懇願して家来になった。  伊勢三郎は源氏の郎党の子だが、盗賊熊坂長範の手下になっていた。美濃国青墓で奥州に下る牛若丸一行を襲撃するが、打ち負かされる。牛若丸の計らいで一命を助けられた三郎は牛若丸の家来を志願。弁慶に一蹴されるが、迫る平家の情報をもたらすなど献身的に協力し、随行を許される。  舞台は牛若丸一行が奥州平泉の藤原秀衡のもとに向かう旅の日。



Top Page