−府中町−
勧進帳安宅関
<人形>− 源 義経
武蔵坊 弁慶
富樫 左衛門
1840年、三世並木五瓶作、杵屋六三郎作曲の歌舞伎十八番。頼朝に追われた義経主従は奥州藤原家を頼って落ち延びようとする。頼朝は各地に関所を設け厳しく詮議。安宅関は富樫が守っている。弁慶は義経を強力(荷物もち)に仕立て、自分たちは山伏姿になり関を通過しようとする。
「あいやしばらく、東大寺再建の勧進山伏なら勧進帳は」の富樫の声に、弁慶は少しも騒がず笈から巻物を取り出し、朗々と読み上げた。その気迫に役人は一行を通すが、番卒が「強力、止まれ。判官殿(義経)に似ている」と咎め、富樫は刀に手をかけた。弁慶は「また義経に似ているお前か。急いでいるのに憎きやつ」と金剛杖で殴りつける。主を打つ弁慶、打たれる義経。息を詰めて見つめる一行の心の切なさに富樫は義経と察しつつ一行を見逃す。
主従が関を通過してほっとしていると、富樫が追ってきて弁慶に酒を勧めて労う。弁慶は人の情に感じ入り、延年の舞を舞う。
−鍛冶町−
太功記 本能寺の場
<人形>− 織田 信長
明智 光秀
森 蘭丸
1799年、近松柳らが合作した時代浄瑠璃。光秀が信長の言動に耐えかねて謀反を決意するところから秀吉が天下を取るまで。
本能寺は信長が利用した京都宿所で四条西洞院にあった。堀と土手をめぐらし、塀と木戸で囲まれていたが土塀の塗りは未完成。内に仏殿、客殿や殿舎や厩舎があり、一見では小城郭であった。
天正10年(1582)6月2日未明、本能寺を包囲した光秀の軍勢は鬨(とき)の声をあげ、鉄砲を打ち込み、あっという間に乱入した。
「いかなる者の企てぞ」「明智が者と見えまする」と欄丸。「是非に及ばず」と叫んだ信長は自ら弓を取り、槍をふるって力戦したが、傷を受けて奥へ。女たちを「急ぎまかり出よ」と追い出し、殿舎に火をかけ内部から戸口を閉じて腹を切った。「人生50年」と謳った信長は49歳であった。
欄丸と近臣は戦って信長に殉じた。光秀の歴史的役割は信長を倒す事で終わりを告げた。55歳の彼の神経は疲れきっていた。
−魚町−
王政復古江戸城引渡
<人形>− 徳川 慶喜
勝海舟
西郷 隆盛
1926年から1934年にかけて書かれた真山青果の三部作。官軍の江戸城総攻撃を控え、幕府の陸軍総裁の勝は苦悩する。総攻撃が始まれば将軍慶喜の命は無く、江戸は火の海と化し、外国がこの機に乗じて内政干渉をする事は明らか。それだけは避けたいと、勝は山岡と薩摩藩士益満を使者として西郷に出す。(一部)
山岡と益満は意気上がる官軍の無礼に耐えて西郷と会談。西郷は慶喜助命は承諾できぬと突っぱねるが、内乱は避けねばならぬと大局的見地で慶喜助命を決断する。(二部)
勝は西郷を薩摩藩邸に訪ねて江戸城無血開城の義を結んだ。だが不満分子は上の野山に蟄居中の慶喜を擁して彰義隊を結成した。至誠が通じぬと苛立つ慶喜を、山岡は勤王という現実行動こそ真の大儀だと説得。慶喜は家臣や江戸市民から惜しまれて江戸城を去る。江戸城無血開城した勝と西郷の努力と己を抑えて大儀に従った慶喜の姿を清々しく描いた作品。