−府中町−
前田利家小丸山入城
人形− 前田利家
ま つ
長連龍
1577年、七尾城は上杉謙信によって落城。4年後、利家は織田信長から能登国を与えられ、小丸山に城を築いた。越前で3万3千石だった彼は、23万石の能登に大きな夢を描いて入城した。時に利家44歳、まつは豊頬、貞淑な容姿で35歳であった。
連龍は信長に助けを求め、秀吉、勝家、利家らの4万の援軍と共に七尾へ向かう途中、落城を知った。更に一族のさらし首を石川郡の倉部浜で見て悔し涙を流した。それから4年後、七尾城は信長に城を明け渡し、連龍は謙信についた温井景隆、遊佐続光らを討った。利家入城を迎える連龍の胸には、万感の思いがあったであろう。
小丸山築城の時、「農民たちが農作業を始める前に、5日間雇って城づくりの手伝いをさせよ」「植え付けの頃になったから、人夫集めは差し控えよ」と農民の生活に配慮した利家に寄せる市民の愛惜が作り出した舞台である。
−鍛冶町−
大阪城評定の場
人形− 前田利家
石田三成
浅野長政
1958年、死を覚った秀吉は幼い秀頼を案じ、五大家老と五奉行制での政権の運営を計った。五大家老は家康、利家などの大名、五奉行は三成、長政など秀吉生え抜きの家臣で、伏見城の総支配は家康、秀頼が居城する大阪城は利家が支配し、家康と利家が仲良く、時に牽制し合っての政権を期待した。
それから一ヶ月後、秀吉は62歳の生涯を閉じたが、その期待を最初に裏切ったのは家康で、豊臣家の許可なしで婚姻を進め、五奉行と対立した。四大家老と五奉行は詰問の使者を派遣。諸大名は家康、利家の二派に分かれ、一戦を交えるかと危ぶまれた。三成は家康を討ちたく、長政は喪中の戦乱は避けたかった。利家は野心はなく、太閤の友人秀吉との約束を守りたかった。苦しい評定の場である。長政などが和議に奔走し、戦いは回避された。
病む利家を見舞った家康は秀吉亡き後、短い期間であったが、天下を真に率いている男の姿を利家に見たに違いない。
−魚町−
清洲城普請の場
人形− 木下藤吉郎
織田信長
前田犬千代
清洲城の城壁が崩れ、その修復工事が遅々として進まないのを見て、藤吉郎は信長に「三日で仕上げる」と大言して奉行になった。彼は一坪ごとに大工二人、左官一人、手伝い二人のグループを編成して能率を高めようとしたが、前奉行に普請を遅らせるよう指示されている棟梁たちは動かない。前奉行の陰謀を察知した藤吉郎は酒宴を用意し、人夫を呼び集め、楽しい酒宴になったとき、城の修理中に敵が乱入すれば、みんなの家族が白刃の下にさらされる危険を説き、また工事を早く仕上げたグループには特別の褒美も用意していると告げた。人夫はスピードを競って働き「三日普請」を成し遂げる。
この時、犬千代は信長の勘気に触れて浪人中。「三日普請」の後の信長が挑んだ桶狭間の合戦に密かに参戦し、一番首をあげるが許されず、森部の戦いで手柄をたててやっと帰参。犬千代の苦しい受難の時期であった。