平成11年(1999年)青柏祭解説
 出し物紹介

府中町
  奥州安達ヶ原 −三段目−
人形−八幡太郎義家
     安部貞任
     安部宗任


 宝歴十二年、竹田和泉、近松半二らの合作の人形浄瑠璃全五段。義家に破れた奥州安部一族の生き残り、貞任、宗任兄弟の復讐物語。
 匣の内侍と皇弟環の宮が行方不明になり、宮お守り役、平{仗が責任を追及される。彼は義家に「安部一族の仕業」と証拠の書状を差し出すが、一族の消息はつかめない。そこへ桂中納言が訪ね、潔く自害を、とすすめた。
 父{仗の危機を知って娘袖萩が庭先に来る。彼女は素性の知らぬ浪人と契って父から勘当され、諸国を流浪して男と別れ、盲目の乞食となっていた。それでも父は許さない。彼女は母に「夫は安部貞任」と証して書状を差し出す。書状を持って去る母を見送る袖萩の前に貞任の子を匿った文治の身代わりとなった南兵衛が縄を切って現れ、宗任だと名のり、父を殺せと懐剣を渡す。一方、袖萩の書状の文字は宮誘拐の場に残された文字と一致した。全てを知った{仗は切腹。袖萩も懐剣で自害した。
 {仗の末娘を妻にしている義家は、桂中納言が貞任、南兵衛が宗任と見破り、戦場での再会を約束した。
   府中町のデカ山中央に位置した人形(安部貞任)が完成した時の写真です。等身大で今にも動き出しそうです。


 

 府中町デカ山全景。




−鍛冶町−
 七尾城評定の場
人形− 畠山義隆
     長対馬守続連
     二本松伊賀守

 戦国時代、各大名は京に上り、将軍や天皇の名の下に天下を統一することが夢であり、その大名が信長、信玄、謙信であった。
 七尾城もその嵐に巻き込まれ、重臣たちは謙信方、信長方に別れ、勢力争いも絡んで対立していた。
 七尾城の最後の城主、畠山義隆は立派な武将になる素質充分だったが、まだ一九歳で、遊佐続光の招待を受け、数時間後に効く毒を盛られて帰館した。明け方、身体の変調に気付いた義隆は、退老した長対馬守続連の長男、綱連を館に招き、弟の二本松伊賀守と協力して二歳の義春を育てるよう後事を託して急死した。その義春も天正五年に病死、能登畠山氏は九代百七十年の歴史を閉じた。
 城主を失った七尾城は、混乱の中で謙信に城門を開いた。毒殺は長との説もあるが、場面は若き城主と実弟、伊賀守と現役の続連が能登の政治を熱心に語った日々、義隆が生きていたら−−−との、地元市民の思いが生み出した舞台である。
 

 鍛冶町デカ山全景




−魚町−
 連獅子 −信長出陣の場−
人形− 織田信長
     連獅子 親
     連獅子 子

 織田信長の一生は、戦いの明け暮れだが、その名を天下に知らしめたのは、桶狭間の戦いである。
 四百四十年ほど前の永禄三年五月、駿河、遠江、三河の三国を支配する武将、今川義元は京に上り、天下に号令する野望を抱いて、二万五千の兵を動かした。最初の敵は信長である。当時、信長の兵はわずか三、四千。万が一の勝ち目もない。
 信長は日々刻々と迫る大軍を尾張清洲城でじっと待った。五月十九日の早朝、今川軍勢が桶狭間に入った知らせが届いた瞬間、信長は二千の兵を率いて出陣した。桶狭間に到着した織田軍が、丘の上から今川軍勢を見下ろした時、激しい夕立が襲った。信長の軍扇が閃き、織田軍は一気に丘を駆け下り、義元本隊の横腹を突いた。
 この奇襲で勝利した信長は二十七歳。妹お市の方は十四歳であった。柴田勝家など旧家臣と共に信長に仕えて六年目の秀吉も参戦した。語り継がれる歴史的な出陣の一場面。
   魚町のデカ山に地車を入れるため、大梃子を使って山車の前輪を浮かしているところ。
 

 魚町デカ山全景




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