平成10年(1998年)青柏祭
 出し物紹介 

−鍛冶町−
 平治の乱義朝館(へいじのらんよしともやかた)
人形−平 重盛
   悪源太義平
   源 義朝

 平治元年十二月、平清盛が熊野参詣の途中、藤原信頼、源義朝の謀反を聞き、 急遽都に引き返し、天皇を大内から六波羅の平氏第に迎えた。関白、基実らが 信頼、義朝の追討を決めると、重盛は兵を率いて大内の待賢門に進み、信頼軍 を破って禁庭の椋樹(むくのき)に達した。  これを見て義朝は「悪源太はいないか」と呼び、追い出しを命じた。義平は 重盛と対戦し、庭の木の間を追い回し大宮表まで退却させた。新手を率いて再 び重盛は椋樹まで攻めてきたが、これも撃退。舞台はこの場面。平重盛は清盛 の長男、悪源太義平は義朝の長男、悪源太の”悪”は”強い”の意味。  義平は重盛を危機一髪のところまで追いつめたが、戦いは平氏の勝利で終わ った。  保元・平治の乱は貴族社会の退廃を背景に始まり、中世、あるいは武家社会 が開かれる合図でもあった。
−府中町−  大阪軍記血判取(おおさかぐんきけっぱんとり) 人形−徳川 家康    木村 重成    本多 佐渡守
 慶長十九年十一月に始まった大阪冬の陣で大阪方も善戦。さすがに天下の悪 害大阪城の守りは堅かったが、家康は急がず、大阪方に和議を持ちかけた。翌 元和元年正月、大阪方の所領も、秀頼・淀殿や浪人の待遇などはそのままでい いなど。また家康の大阪出馬のしるしに大阪城の総構えの堀を埋めることを条 件にやっと成立。誓書を取り交わした。但し埋め立てのことは口約束に止めた。  家康は駿府に帰り、秀忠は、安藤正次を奉行として大阪城の外堀だけでなく、 内堀も埋めてしまった。大阪城の運命を左右したこの誓書に秀頼・淀殿に信頼 された木村重成や家康との間柄を「君臣の間、相遭うこと水魚の如し」と言わ れた本多佐渡守なども関わったのでは?との推測で、講談で使われている。  ともあれ、五月の夏の陣で裸になった大阪城は陥落し、戦国時代は終焉した。
−魚 町−  一の谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき) 人形−源 義経    熊谷 直実    石屋彌陀六(いしやみだろく)
 義経は熊谷直実に「此花江南所無也(このはなこうなんのしょむなり)。一 枝窃盗の輩(ともがら)に於いては天永紅葉の例に任せ、一枝を伐らば一指を 剪(き)るべし」と書いた制札を与え、平敦盛の陣所に向かうように命じた。 内容は桜の枝を折るな、の意味だが、熊谷は「院の落胤である敦盛を助けよ。 一子を切らんとするならば一子を切れ」との義経の心だと解釈する。  彼は須磨の浦で、敦盛を討つと見せて初陣した我が子直家の首を打ち、陣屋 で義経の前に捧げ「御批判如何に」という歌舞伎の名場面である。  義経は敦盛の首と認め、石屋彌陀六が幼少の頃自分を助けてくれた平宗清と 見抜き、本物の敦盛を託す。熊谷は自分の子を殺し、人生の無常を感じて出家 する。  無常観が漂う時代絵巻だが、武士道が持っている酷薄さに対する反逆を秘め ている。


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